一時帰国

 スペインでの駐在期間も残り3ヶ月を切ってしまった。いつもながら月日の経つのが早いと感じていた頃、母が危篤との知らせを受け急いで帰国した。兄らと今年9月の米寿祝いを話していた矢先のことだ。母は心臓と腎臓を患っており、病院のベッドの上でかなり憔悴していた。日本滞在中、大事には至らなかったが、気持ちの整理と心の準備だけをしてとりあえずスペインへ戻った。

 母は大正7年生まれ。幼少の頃は関東大震災の直撃を受け、青春時代は想像を絶する戦渦を乗り越え戦後のドサクサ時代を生き延びてきた。地震発生の瞬間、おかっぱの髪が揺れ泣き叫ぶ幼い母を祖母が見つけ、庭で立ちすくむ母へ地を這いながら近づき、必死で小さな体を抱き寄せたそうだ。その後、祖母は母を抱え火の手が上がる場所から逃れ、祖父ら家族とは離れ離れとなり、燃え盛る横浜市街を尻目に、何日も線路の枕木上で野外生活をおくったそうだ。当時のリアルな状況を筆で綴った祖母の日記帳は、母にとって大切な形見である。勿論、私も大切にコピーを保管している。

戦争真っ盛りの青春時代は省線 (旧国鉄) の新橋駅に勤めていたそうだ。隣の浜松町駅傍らで爆弾が炸裂したときの衝撃、美しい花火のように映った焼夷弾、空襲で戦闘機が襲い掛かってきた瞬間、防空壕の中での息を潜める恐怖、空襲が去った後の静寂さ、死者はおろか怪我人も出なかったときの安堵感、着物や帯を食べ物と交換したこと、飢餓状態の中でひとり隠れて芋を食べたひもじい思いなど、当時の逸話が詰まった宝庫のような母である。

私が小学2年生の頃、伊勢湾台風が日本列島を襲い、父は必死になってボロ家を補強した。母は微笑を絶やさずにぎりめしを用意してくれたのを想い出す。子供の私は呑気なものだ。荒れ狂う風雨などそっちのけで蝋燭の灯りに戯れ、両手で影絵を楽しんでいた。

まだまだ母の逸話は尽きない。これらの想い出は、母の強靭な生命力の証であり、生きる術の人生談として脳裏に焼き付いている。時間は多く残されていないかもしれない。もっともっと沢山の逸話を溜め込んでおきたい。

July 30 2006
アマポーラの道標 











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